先日、クウェート人女子学生の家に招かれた。
留学生の支援団体を主催している学生たちがホストになり、私たち留学生を家に招待してくれたのだ。
クウェート人はさすがお金持ち、宮殿のような家で、おそらく20人以上は集まっていたのだろうと思う。
ただし、その場にいたのは女性だけだった。
正確には、ホスト学生のお姉さんの子どもが唯一の男性としてその場に存在していたけれども、男性は本当にその赤ちゃんのオマルくんしかいなかった。
イスラームでは男女の世界を明確に区別するので、こういったパーティーなどは必然的に男女別で開催される。
女性が集っている場に男性が姿を見せることはない。
日本で言うところの「女子会」が行われるわけだが、面白かったのはクウェート人の女子学生たちがいつも身に付けているアバヤやへジャブを身につけていないことだった。
彼女たちは我々非ムスリムの外国人と同じように、思い思いの服を着ていた。
クウェートにいて、真っ黒なアバヤとへジャブを身に纏ったまるで魔女のような女性を見慣れ始めていたからか、なんとなく不思議な心地だった。
それと同時に、アバヤとへジャブは必要ない世界に入り込んだのだと、私は境界の中にいるのだと実感していた。
クウェートにいると、日本にいる時以上に境界を意識する。
「境界」という単語でいつも思い出すのは梨木香歩さんのエッセイだが、日本に本をあらかた置いてきてしまったので読み返すことが出来ないのが残念だ。
梨木さんは世界の家を例に出し、境界について考察していた。
日本は塀で境界を明確にし、イギリスは生け垣で独特な境界を作り、アメリカは家と家との境界こそ曖昧にするものの、銃を用意することで家を守ると言う。
ではクウェートはどうかというと、かなり明確に境界を作っているように思う。
住宅地を歩くことが少ないので家に関してどうだったか忘れてしまったが、大学のキャンパスの周囲は塀と有刺鉄線で囲われている。
有刺鉄線なんて、日本で最後に見たのはいつだろう。
カフェテリアも図書館の座席も男女別というイスラームの国に暮らしていて、私はつくづく境界を作るのが下手だと思う。
日本で私は境界を作る必要のない生活をしていた。
区別すべきは男女ではなく個人であり、相手によって距離感を決め、場合によっては明確な境界を定めていた。
個人主義とはこういうことなのだろう。
学校帰りのバスで、ベトナム人の男子学生と女子学生が隣同士の席に座っていた。
恋人だとか友達だとかそういうことは一切関係ない。日本でも同じことだ。
だが、クウェートではまずそのようなことはあり得ない。異性の隣の座席にわざわざ座ることなど、絶対にない。
だから、この光景をクウェート人や他のムスリムが見たらどんなことを思うだろうかとぼんやりしてしまった。
また別のバスに乗っているときのことだ。
その日のバスは満員だった。例によって前の座席に男性が、後ろの方の座席に女性が座っていた。
途中で女性がバスに乗ろうとしてきたが、空いている席は男性の隣の補助席だけだった。
普通なら座るだろうが、その女性はバスに乗るのを諦めてしまった。
私が男性の隣の補助席に座ってもよかったのだが、男性がムスリムだったら私が横に座ることをよく思わないかもしれないし……などと後からもやもや考えただけだった。
バスのように越えてはならない境界もあるが、クウェートの女子会のように越えてもよい境界もある。
日本で所属していた大学で障害者支援のバイトをしていたとき、よく他学部の授業に出席することになっていた。
もちろん、他学部の建物に入らなければならないわけだが、「なんとなく自分の居場所ではない雰囲気」にいつも戸惑いつつ、バイトに向かっていた。
それと同じで、クウェート大学の他学部の建物にはなんとなく入りづらい雰囲気を感じる。
明らかに外国人である私が学部の建物をうろついていると目立つという理由もあるが、日本で感じていた「なんとなく自分の居場所ではない雰囲気」まさにそれだ。
このくらいの境界なら飛び越えてしまっても問題ないだろう。
よく食事をするカフェテリアの近くに社会科学部と法学部の建物がある。
なかなか素敵な建物だ。いつか探検してみたいと密かに思っている。
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