クウェートのピザハット。同じだけれど、違う。 |
世界の距離はあなたへの距離でウキウキしたような恋愛の歌だが、この言葉が気になってならない。
そばに行くほど 広くなる
(坂本美雨「あなたと私の間にあるもの全て愛と呼ぶ」より)
「そばに行くほど 広くなる」とはいったいどうなるのか、「あなたへの距離」とはいかばかりのものか。
論理的に解釈すると、ここでの「距離」は物理的なものではなく、精神的なものだろう。
こういう風に言葉にすると、いとも簡単に、単純なことのように表せてしまうのが不思議で、なんとも悔しい。
こちらへ来てから、何人か日本の知人友人と連絡を取った。
ずいぶんと離れてしまったと思う人もいれば、不思議なことに日本にいた時と大して変わらない距離感で連絡が取れた人もあった。
日本にいた時と変わらない距離感で連絡が取れた人というのは、言ってしまえば日本にいた時既に疎遠だったか、たまにしか連絡を取っていなかった人なのかもしれない。
私はその人たちのことを好きでいるのは間違いないが、様々な条件が重なって、頻繁には会えなかったのだろう。
逆にずいぶん離れてしまったと感じる人は、日本にいた時に近しく接していた人であると思う。
その最たる人物が家族であり、彼らと連絡を取る時には日本とクウェートという物理的な距離感を感じざるを得ない。
日本からクウェートに物資援助をしてくれるという話をしているのもあるが、大阪—広島間の距離でも心配されていたのに、海をまたいでしまうとなると両親の心配がメールの文面からにじみ出ているようである。
物理的な距離と精神的な距離は相互に影響を及ぼし合っているのだろうと思う。
物理的に離れてしまって本当に離れてしまったと感じる人たちと、物理的には離れているが普通に連絡が取れるので「あれ、意外と離れてもいなかったのだな」と思う人たち。
ただ間違いないのは、SNSなどのツールが私たちの距離を確実に狭め、いついかなる場所でも連絡を取ることができるという点で、ほとんど均質化しているということだ。
一昔前、インターネットなどなかった時代の留学は、手紙かなにかで連絡を取るしかなかったそうだ。
アラビア語専攻の恩師らは1970〜80年代のアラブに留学していたとのことだが、彼らの肉親の心配を思いやるとやるせない。
その留学時代を考えてみれば、日本の人と連絡を取るのに非常に時間がかかったということは、日本での人間関係をほとんど一時的に断ち切って留学していたということになる。
私の場合はSNSやメールで簡単に連絡が取れるということにはなるが、日本にいる全ての家族や知人友人と同じ距離感で接さざるを得なくなった。
日本の友人に助けを求められたとしても、今の私には助けにいくことができない。
これはある意味、かつての人間関係の距離感から解放されたとも言える。
家族はともかく、一時的に日本の友人たちとの距離感がだいたい等しくなるようにリセットされた。
かつて近かった人と離れてしまったのは悲しくもあるが、日本にいた頃に抱えていたドロドロしたものに一時的とは言え目を向ける必要がなくなったことで、思っていた以上に気楽な気持ちになれた。
補足しておくと、一応こちらにも日本人留学生は他に4人ほどおり、渡航やクウェートでの各種手続き、授業などで日々協力しながら過ごしていて、出会って2週間ほどなのにずいぶんと仲良くなった。尊敬も信頼もする仲間たちだ。
しかし出会って間もないし、出会った経緯があくまでも「留学」なので、既存の日本での人間関係に当てはめるのは不適切だと思っている。
そんなことを考えている自分はもしかしたら冷酷なのかもしれないと思いつつ、いやいや、これは神様が私に用意してくれていたプレゼントなのかもしれないとも思う。
ようやく正式に受講するクラスも決まり、精神的な落ち着きを取り戻してきた。
新しい環境に飛び込むことでの、人間関係のリセットと再スタート。
大学に入学し、一人暮らしを始めたばかりの頃のことを思い出す。
今の私はあの頃よりもずいぶんタフだ。考え、文章にするというスキルも身につけた。
「日本は遠いから、留学中に帰国はしないかなぁ」と他の留学生と話したくらいには日本は遠い。
その「遠さ」を上手に解釈し、プラスに考えることができるようになった自分を誇ってもいいような気がしている。
たまには、こういう風に自分を褒めて文章の締めくくりにしよう。
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