寮や大学のカフェテリアで食事をとりながら周囲の人を観察していると、食べ残しが目立つのが気になる。
到底食べきれないような量を盛られてしまうので、私も食べ残すことがあるのだけれど。
大量に盛られた料理をほとんど残してしまう人もいるので、いつも「もったいないなぁ」と思っている。
クウェートのレストランで食事をしたときもそうだった。食べきれない量の食事が出てきて、結局残した。
そんな風にして、私は「食べ残す」という行為にどんどん慣れている。
食べ残すことに慣れつつある自分に嫌気が差してくることもあるが、食べきったら脂でおなかを壊してしまうので、自分の身を守るために食べ残す。
だからかどうかはわからないが、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさま」を欠かさないようになった。
特に寮で食事をしていると、周囲は文字通り外国人ばかりなので、「いただきます」の習慣がない人が多い。
その上、寮の食事が合わなくて苦しんでいる人が多いというのは、また別の話か。
寮の食事は奨学金でまかなわれている。
だから、どれだけ食事が身体に合わなかろうと、食事なしには生きてゆくことの出来ない身なので、食事への感謝を表す最も簡単な言葉である「いただきます」「ごちそうさま」をこまめに言うようになったのだだと思う。
飽食なのかどうかわからないが、大量に食べ残す人を見て、食べるという行為については考えさせられるものがある。
この人たちは食べ物を大事にする気持ちがないのだろうか、消費することに対して何も思わないのだろうか、と。
クウェート人はもちろん、こちらに来ているアフリカ人などお金持ちが多いので、もしかしたら彼らは消費することに抵抗がないのかもしれない。
そんな空気に対抗するかのように、私は「いただきます」「ごちそうさま」といちいち手を合わせる。
アラブ文化圏では、「いただきます」の代わりに「ビスミッラー(باسم الله)」、「ごちそうさま」の代わりに「アルハムドリッラー(الحمد لله)」と言うそうだ。前者は「神の御名によって」、後者は「神に讃えあれ」というイスラームの決まり文句で、食事に限らず何かを始めたり終えたりする時にこの言葉をよく使う。
イスラームと生活は不可分のものなのだなと、こういう現場に出くわすといつもしみじみ思ってしまう。
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